粗筋

アメリカ大使館が爆破を受けた。愛国心に駆られた男、カイルは兵役を志願する。厳しい選抜試験を潜り抜け海軍特殊部隊ネイビーシールズに配属された彼は、スナイパーとしての類稀な才能を開花させ同時テロに端緒を発するイラク戦争へ出征する。四度に渡る派兵の中で彼は一六〇人以上の敵を殺し、味方からは英雄として、敵からは悪魔として畏れられるようになる。

感想

戦争に、英雄をもう一度。

イラク戦争への評価は時局により移り変わってきた。開戦直後は世界の警察の復権もかくや、と思えるほどの勢いであったが戦争が泥沼化して以降はベトナム戦争の後期を思わせる厭戦感が漂っていた。戦争を描く作品も、足並みを同じくして風合いが変化したように思う。
さて、今作であるが戦争に対して好意的に捉える作品と見る人が多いのではなかろうか。スナイパー映画の振れこみが強いが、地上戦、強襲戦、拠点防衛戦など様々なミッションをこなすカイルを巡る物語は、まるでFPSのゲームをプレイしているかのようなアクションの興奮を覚える。カイル自身は一兵士として仲間を守るために敵を殺すことに罪悪感を覚えないと繰り返し語る。物語に華を添える敵スナイパー、ムスタファとの幾度に渡るスナイプ合戦も、彼の「人」としての内面を見ることなく終わる。英雄にとっての一武勲に過ぎない。
ではそのような、戦争讃歌とも受け取られかねない描きは何故許されるようになったのだろうか。それは悲しみのプロセスが悲しみからの再起の段階に来たとも云えるし、ISISといった分かりやすい「世界の敵」の登場によるものかもしれない。感情の向かう先が違うにせよ、イラク戦争は歴史に織り込まれた。過去になった。

One murder makes a villain; millions a hero. Numbers sanctify
チャップリンの言葉である。殺人は罪深いものなのに、数が神聖化する。神聖化するのは大衆であるが、殺人の行為者はどうであったか。
デーヴグロスマンは自著『戦争における「人殺し」の心理学」の中で、殺人に伴うストレスの強度は、対象との距離で変化すると説いた。より近く、より直接的で、命を奪う感覚があるほど、心はダメージを受ける。スナイパーは指先ひとつで簡単に人が殺せる。だから冷血に100人も殺せたのか。そう思えるかもしれない。
だがグロスマンは同時に、人の死を「我が責ではないと『否認』できる」かどうかも大きなファクターだと云っている。銃殺刑は一人では行わない。電気椅子の死刑吏は複数人でボタンを押す。これらの殺人の否認とは、スナイパーは対極に位置する。狙い、撃ち、死ぬのを見届ける。カイルはその時を何を思ったのか。それは。


総評
皆劇場で見て確認しようね!

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