メタフィクションは素晴らしい
2014年4月2日 趣味 コメント (4)更新を追ってはいたが一押しとして紹介するには足りないかなあ、と思っていたウェブ漫画があった。
http://anpanmanto.at-ninja.jp/index.html
しかし最近の更新で眼を瞠るものがあった。
http://anpanmanto.at-ninja.jp/25.html
まさかこんな展開になるとは。
我々はパロディを創る「意思」そのもの
創作意欲、自己顕示欲、承認欲求、君達への愛と悪意の集合体
我々はどこまでも自由で勝手で無責任な存在だ
ぐちゃぐちゃにしたくなるんだ
悪戯心っていうのかな
愛と勇気で一杯の君達を
より現実(リアル)に残酷に
それで皆を笑わせたい喜ばせたい
この表現は最高にぞくぞくするね。特に2次創作、ではなくて「パロディ」という醜悪さを表現しようとする意志には魅せられるね。この名言の後のバタコさんレ○プ!エロ同人と化したカバオ先輩、の表現に端的に表されている。
メタの面白さというのは「メタだぜ!意識してるぜ!」のアピが面白いのではなく、そのメタ表現によってこれまで読者が作り上げてきた心内世界、価値観(更に言えば後世に語り継がれるようなメタ名作というのは、作品のみならず、読者の現実世界を見る世界そのものを変革させるのだ)が揺さぶられ、メタを含めて再構築されていく快感にあるのだと思う。だからザ!メタ100個入れ子形式!すごいでしょ!って作品よりも、どどん!と一個提示される方が胸にぐっとくることは良くあります。だから僕そもさんストーリー単体として面白くない新本格のファウスト系若手作家は大嫌いだったのよなあ。
最近のメタフィクションで面白い(メタフィクションの埒外の可能性はあるが)と思ったのは、むしろ小説、漫画、ゲームなどの既存創作物がその手法を導入するのではなく、本来ストーリーですらなかったものがストーリー化される、そしてその中で物語構造、虚構性、創作性を意識した作りになる、というものがあります。
何いっとんじゃお前、と言われるかもしれませんが、そう、一部の人のアングラ文化だった筈がいつの間にか週刊少年ジャンプでもネタが載るようになった真夏の夜の淫夢である。
「えっ…何それは…(困惑)」
「お前の精神状態おかしいよ…」
と思われる諸兄がいるかもしれない。頭おかしいのは事実だが最近のストーリー系淫夢にはメタフィクションの新たな地平を拓く可能性があると私は見ている。
一つにBB先輩劇場がある。元は本編の一部のシーンをブルーバックで切り取り、他の動画を造る際の素材にするという動きだったが、いつの間にかBBを沢山切り貼りすることでストーリー仕立てのものになった。これが面白いのは、有志(キチガイ)の作った素材が、全く違うストーリー、全く違う場面にて使われるということである。2次創作におけるキャラ萌え再生産、というのはゼロ年代評論で盛んに取り沙汰されたことだが、淫夢がこれらと違うのは、後述する論点にも重なる部分があるが、「同一キャラ『の人格』を同一キャラ『の肉体』に使われなくてもいい」ということなのだ。
適切な例が浮かばず申し訳ないが、ゼロ年代最後のキャラ萌えの代表である初音ミクを挙げようか。2次創作の度重なる過程を経た架空存在の彼女であるが、幾億の再生産を経た後でも「初音ミク『らしさ』」を構成する要素は皆さんの頭の中にあるであろう。作り手(或は絵師)のアレンジによっていくつかの要素が抜け、アレンジ要素が増えることがあるが、それでも人はそれを「初音ミク」として認識する。
ところが淫夢動画において、そこで動くキャラクターたちはキャラ一人一人の同一性を保持していない。これが実に新しいのだ。BB先輩劇場ではキャラクターたちはベースとなる「肉体」を有している。しかし「魂」は常に同一ではない。場面展開に応じて、様々なBB素材、音声(名言集含め)、小ネタが混じる。場合によっては、別キャラのBBを短時間使用することで、「一瞬キャラの外見が変わるにせよ、論理的、流れ的にそれは先ほどまでのキャラを表す」ことが出来る。(いざ文字で表現するとこれもう分かんねえな…)
これはもう一つの淫夢動画である「COATアニメーション」シリーズ≒アニメ、ドラマを淫夢キャラの台詞で葺き替える遊びにおいてもより顕著である。22分のアニメ本編を淫夢吹き替えした場合、一人のキャラにつぎ込まれる淫夢キャラは単純な相槌程度の使用を含めると、10人を下回ることはないだろう。むしろ20人、30人のキャラ素材が使われることも多々ある。他にもニコニコ動画には「~~に~~のキャラが出たら」などの吹き替え式アニメMADはあれど、このようなことはないだろう。大抵は一人のキャラに、別作品のキャラが使われることが大半の筈だ。
そもそもが、ベースたる「登場人物」(ここでは淫夢本編に出てくる人を「登場人物」、2次創作に出てくるものを「キャラ」と呼ぶことにしよう)も、BBや語録などによって複数の「キャラ」を持っているのだ。例えば淫夢の中心人物である「野獣先輩」を例に取ろう。彼は4章では「ステハゲ」「睡眠薬」「野獣の眼光」「やわらかスマホ」、空手部では「ゲスい」「ホラホラホラ」インタビューでは「王道を征く」などの「キャラ」性を持っている。これが面白いのは、従来の2次創作においてはキャラの「デザインの特徴」「性格」くらいしか個性になりえなかったことが、言葉であるとか、特定のキーターム、そのキャラが身に着けていたりしない「一アイテム」に至るまで「キャラ」要素となりえたことなのだ。そしてその要素は本編のコメントや2次創作のコメントなど、「従来作り手足りえなかった消費者が、消費者から制作者に転向することなく 作りえることこそが、何よりも画期的なのだ。
話がどこまでも飛躍しそうなのでここらでまとめるが、最近の虚構性を意識した流れとして、ストーリーありきでそこにメタ性を見出すのではなく、元からストーリーではないものをストーリーにする動きがゼロ年代くらいからあった。その中でも淫夢系というのは、短い「語録」、短い「BB]を多用することにより、「肉体」と「魂」を分化させ、魂を継ぎ接ぎする中で一一期一会とも云える「その場のみの『キャラクター』(キャラのキャラ)」を他の2次創作系よりも意識的に作り出す。この
「登場人物」 の「肉体」
「登場人物」の「魂」
「キャラ」の「肉体」(可変)
「キャラ」の「魂」(可変)
「キャラ」の「キャラ」
構造こそが、創作系淫夢の面白さの所以であると、私は思う。
http://anpanmanto.at-ninja.jp/index.html
しかし最近の更新で眼を瞠るものがあった。
http://anpanmanto.at-ninja.jp/25.html
まさかこんな展開になるとは。
我々はパロディを創る「意思」そのもの
創作意欲、自己顕示欲、承認欲求、君達への愛と悪意の集合体
我々はどこまでも自由で勝手で無責任な存在だ
ぐちゃぐちゃにしたくなるんだ
悪戯心っていうのかな
愛と勇気で一杯の君達を
より現実(リアル)に残酷に
それで皆を笑わせたい喜ばせたい
この表現は最高にぞくぞくするね。特に2次創作、ではなくて「パロディ」という醜悪さを表現しようとする意志には魅せられるね。この名言の後のバタコさんレ○プ!エロ同人と化したカバオ先輩、の表現に端的に表されている。
メタの面白さというのは「メタだぜ!意識してるぜ!」のアピが面白いのではなく、そのメタ表現によってこれまで読者が作り上げてきた心内世界、価値観(更に言えば後世に語り継がれるようなメタ名作というのは、作品のみならず、読者の現実世界を見る世界そのものを変革させるのだ)が揺さぶられ、メタを含めて再構築されていく快感にあるのだと思う。だからザ!メタ100個入れ子形式!すごいでしょ!って作品よりも、どどん!と一個提示される方が胸にぐっとくることは良くあります。だから僕そもさんストーリー単体として面白くない新本格のファウスト系若手作家は大嫌いだったのよなあ。
最近のメタフィクションで面白い(メタフィクションの埒外の可能性はあるが)と思ったのは、むしろ小説、漫画、ゲームなどの既存創作物がその手法を導入するのではなく、本来ストーリーですらなかったものがストーリー化される、そしてその中で物語構造、虚構性、創作性を意識した作りになる、というものがあります。
何いっとんじゃお前、と言われるかもしれませんが、そう、一部の人のアングラ文化だった筈がいつの間にか週刊少年ジャンプでもネタが載るようになった真夏の夜の淫夢である。
「えっ…何それは…(困惑)」
「お前の精神状態おかしいよ…」
と思われる諸兄がいるかもしれない。頭おかしいのは事実だが最近のストーリー系淫夢にはメタフィクションの新たな地平を拓く可能性があると私は見ている。
一つにBB先輩劇場がある。元は本編の一部のシーンをブルーバックで切り取り、他の動画を造る際の素材にするという動きだったが、いつの間にかBBを沢山切り貼りすることでストーリー仕立てのものになった。これが面白いのは、有志(キチガイ)の作った素材が、全く違うストーリー、全く違う場面にて使われるということである。2次創作におけるキャラ萌え再生産、というのはゼロ年代評論で盛んに取り沙汰されたことだが、淫夢がこれらと違うのは、後述する論点にも重なる部分があるが、「同一キャラ『の人格』を同一キャラ『の肉体』に使われなくてもいい」ということなのだ。
適切な例が浮かばず申し訳ないが、ゼロ年代最後のキャラ萌えの代表である初音ミクを挙げようか。2次創作の度重なる過程を経た架空存在の彼女であるが、幾億の再生産を経た後でも「初音ミク『らしさ』」を構成する要素は皆さんの頭の中にあるであろう。作り手(或は絵師)のアレンジによっていくつかの要素が抜け、アレンジ要素が増えることがあるが、それでも人はそれを「初音ミク」として認識する。
ところが淫夢動画において、そこで動くキャラクターたちはキャラ一人一人の同一性を保持していない。これが実に新しいのだ。BB先輩劇場ではキャラクターたちはベースとなる「肉体」を有している。しかし「魂」は常に同一ではない。場面展開に応じて、様々なBB素材、音声(名言集含め)、小ネタが混じる。場合によっては、別キャラのBBを短時間使用することで、「一瞬キャラの外見が変わるにせよ、論理的、流れ的にそれは先ほどまでのキャラを表す」ことが出来る。(いざ文字で表現するとこれもう分かんねえな…)
これはもう一つの淫夢動画である「COATアニメーション」シリーズ≒アニメ、ドラマを淫夢キャラの台詞で葺き替える遊びにおいてもより顕著である。22分のアニメ本編を淫夢吹き替えした場合、一人のキャラにつぎ込まれる淫夢キャラは単純な相槌程度の使用を含めると、10人を下回ることはないだろう。むしろ20人、30人のキャラ素材が使われることも多々ある。他にもニコニコ動画には「~~に~~のキャラが出たら」などの吹き替え式アニメMADはあれど、このようなことはないだろう。大抵は一人のキャラに、別作品のキャラが使われることが大半の筈だ。
そもそもが、ベースたる「登場人物」(ここでは淫夢本編に出てくる人を「登場人物」、2次創作に出てくるものを「キャラ」と呼ぶことにしよう)も、BBや語録などによって複数の「キャラ」を持っているのだ。例えば淫夢の中心人物である「野獣先輩」を例に取ろう。彼は4章では「ステハゲ」「睡眠薬」「野獣の眼光」「やわらかスマホ」、空手部では「ゲスい」「ホラホラホラ」インタビューでは「王道を征く」などの「キャラ」性を持っている。これが面白いのは、従来の2次創作においてはキャラの「デザインの特徴」「性格」くらいしか個性になりえなかったことが、言葉であるとか、特定のキーターム、そのキャラが身に着けていたりしない「一アイテム」に至るまで「キャラ」要素となりえたことなのだ。そしてその要素は本編のコメントや2次創作のコメントなど、「従来作り手足りえなかった消費者が、消費者から制作者に転向することなく 作りえることこそが、何よりも画期的なのだ。
話がどこまでも飛躍しそうなのでここらでまとめるが、最近の虚構性を意識した流れとして、ストーリーありきでそこにメタ性を見出すのではなく、元からストーリーではないものをストーリーにする動きがゼロ年代くらいからあった。その中でも淫夢系というのは、短い「語録」、短い「BB]を多用することにより、「肉体」と「魂」を分化させ、魂を継ぎ接ぎする中で一一期一会とも云える「その場のみの『キャラクター』(キャラのキャラ)」を他の2次創作系よりも意識的に作り出す。この
「登場人物」 の「肉体」
「登場人物」の「魂」
「キャラ」の「肉体」(可変)
「キャラ」の「魂」(可変)
「キャラ」の「キャラ」
構造こそが、創作系淫夢の面白さの所以であると、私は思う。
コメント
ネタばらしの会の前、作者が長期的に投降してなかったのも意味を感じる
マイコロスさんの書く文章すき