粗筋
高潔な刑事、マーフィーは違法な銃器の密輸を追っていた捜査の中で生命にかかわる大怪我を追ってしまう。同時期、世界に冠たる大企業オムニ社はロボットをアメリカ国内に導入しようと画策していたが、保守派の政治家に「ロボットには正義を感じられる心がない」と非難されていて、ロボットの登用を禁じる法律の前に苦しんでいた。ロボットでもあるが、人の心を持つ存在。オムニ社はリサーチの末、ロボット技術を人間に転用することを計画する。かくしてロボコップ、マーフィーが生まれることになる。
感想
魂とは何か。旧作と新作との間の「魂」の表現について2冊のライトノベルを言及しつつ以下に所感を述べる。
旧作ロボコップにおける「魂」とは、「ロボコップに魂はあるか、否か?」の二元論であったように思う。旧作のマーフィーは、死人であった。
>「法医学的に死体の状態で機械的に復活した人間」
なのである。つまりは生者=人間ではないのだ。フランケンシュタインが一番近しい存在だろうか。ライトノベルにおいては、藤真の「スワロウテイル」シリーズが思い当たる。人間の「相手」として作られる人工妖精。人に近しい、人ではない存在。
「人間」の定義とは何か。「人間性」とは何か。限りなく人間に近しい存在でも、そこに隔たりがあるのであれば、そこには魂は見出されないのだろうか。
比べて、新作のロボコップでは、「魂」はマーフィーの内に見いだされる。だが、「どこまでが魂なのか」という新たな問題が提示される。魂は確かにある。だが、どこまでが魂なのだろうか。魂「だと思っていたもの」が、実は魂ではないことに気づかされるのだ。人間性が、そぎ落とされていく。
爆発で吹き飛び、意識を失ったマーフィー。ラボの中で、彼は人生最良の瞬間の再現の夢を見ている。fly me to the moonを妻と踊る美しき夢。彼の意識は現実世界で覚醒する。野外パーティーの場から無機質なラボで起こされた彼は錯乱し、強制終了されてしまう。もう一度目覚めたとき、鏡に映った自分の「体」がパーツ単位で、腕が、足が、胴が取り外され、むき出しの人工心肺の上に奇妙に鎮座した首から上のみが自分に残された「人間」のパーツである現実を見せつけられる。これは「人間」としての自分「と信じていたもの」が、いともたやすく分解されることを示唆している。このシーンはこの映画の中で1、2を争う名シーンなのだが、彼が純然な人間であった時に最後にしようとしていたのが妻との情交だったというのがまた憎い演出だ。子孫を残すという、生物の至上命題である「連続性」が、永遠に失われたことを意味しているのだ。
かくしてロボコップとして生まれ変わったマーフィー。しかし彼は人間性を多分に残していたために、シュミレーション上で反応に躊躇が混じってしまいオムニ社は不服だった。そのために彼は数多くの施術を受け、よりロボットのように感情を捨てた存在になるべく改造されていく。戦闘時には脳に埋め込まれた機械が彼の代わりに物事を選択、決定、行動する。彼はそれを自分の意志であるかのように錯覚させられるのだ。もうマーフィーに自由意志などはない。それはまやかしなのだ。
吉川の「パンツァークラウンフェイセズ」が思い起こされる者もいるだろうか。その作品の中で、人は己の行動をUn-faceと呼ばれるシステムによって統御されており、自身の過去の選択や社会の諸相とのマッチングなどにより将来の行動が「最適化」され、提示される。そこには最早己の意志などありはしないのだ。「あるように思っている」だけなのだ。
旧作と新作のロボコップ。その間には27年の歳月が横たわっている。そこで何が起きたのだろうか。この2作の差は、監督や制作陣の性向の違いというよりも、それを取り巻く社会の違いであるように私は思う。特に今作の「人間の行動と、その意志」に関する問題に関していえば企業のマーケティングにおける顧客の消費行動の分析や、社会学、行動心理学などの普及(昔からある分野にせよ、学者のみならず大衆が自分達の行動を分析し、それを発信出来る地位を獲得したことが特に大きなものだと思う)があるだろう。人は自分の行動が自分の知覚できる意思以上のものに左右されるということを受け入れつつある。
魂がそぎ落とされたマーフィー。玉ねぎの皮をむくように一枚一枚はぎ取られていく彼の人間性は、その中心に何も残らなかったのだろうか。それは否だ。彼はオムニ社に施された改造手術の影響を乗り越え、徐々に人間らしさを取り戻していく。彼が最後に回帰したのは、家族への愛であった。生殖機能が失われ、次代を生み出すことは叶わなくなったが、妻と息子を守る意志だけは捨てなかった。自分を守るためには決して発揮されなかった「優先順位を破ってまでも行動する力」は確かに二度、家族を守るために行使されたのだ。
高潔な刑事、マーフィーは違法な銃器の密輸を追っていた捜査の中で生命にかかわる大怪我を追ってしまう。同時期、世界に冠たる大企業オムニ社はロボットをアメリカ国内に導入しようと画策していたが、保守派の政治家に「ロボットには正義を感じられる心がない」と非難されていて、ロボットの登用を禁じる法律の前に苦しんでいた。ロボットでもあるが、人の心を持つ存在。オムニ社はリサーチの末、ロボット技術を人間に転用することを計画する。かくしてロボコップ、マーフィーが生まれることになる。
感想
魂とは何か。旧作と新作との間の「魂」の表現について2冊のライトノベルを言及しつつ以下に所感を述べる。
旧作ロボコップにおける「魂」とは、「ロボコップに魂はあるか、否か?」の二元論であったように思う。旧作のマーフィーは、死人であった。
>「法医学的に死体の状態で機械的に復活した人間」
なのである。つまりは生者=人間ではないのだ。フランケンシュタインが一番近しい存在だろうか。ライトノベルにおいては、藤真の「スワロウテイル」シリーズが思い当たる。人間の「相手」として作られる人工妖精。人に近しい、人ではない存在。
「人間」の定義とは何か。「人間性」とは何か。限りなく人間に近しい存在でも、そこに隔たりがあるのであれば、そこには魂は見出されないのだろうか。
比べて、新作のロボコップでは、「魂」はマーフィーの内に見いだされる。だが、「どこまでが魂なのか」という新たな問題が提示される。魂は確かにある。だが、どこまでが魂なのだろうか。魂「だと思っていたもの」が、実は魂ではないことに気づかされるのだ。人間性が、そぎ落とされていく。
爆発で吹き飛び、意識を失ったマーフィー。ラボの中で、彼は人生最良の瞬間の再現の夢を見ている。fly me to the moonを妻と踊る美しき夢。彼の意識は現実世界で覚醒する。野外パーティーの場から無機質なラボで起こされた彼は錯乱し、強制終了されてしまう。もう一度目覚めたとき、鏡に映った自分の「体」がパーツ単位で、腕が、足が、胴が取り外され、むき出しの人工心肺の上に奇妙に鎮座した首から上のみが自分に残された「人間」のパーツである現実を見せつけられる。これは「人間」としての自分「と信じていたもの」が、いともたやすく分解されることを示唆している。このシーンはこの映画の中で1、2を争う名シーンなのだが、彼が純然な人間であった時に最後にしようとしていたのが妻との情交だったというのがまた憎い演出だ。子孫を残すという、生物の至上命題である「連続性」が、永遠に失われたことを意味しているのだ。
かくしてロボコップとして生まれ変わったマーフィー。しかし彼は人間性を多分に残していたために、シュミレーション上で反応に躊躇が混じってしまいオムニ社は不服だった。そのために彼は数多くの施術を受け、よりロボットのように感情を捨てた存在になるべく改造されていく。戦闘時には脳に埋め込まれた機械が彼の代わりに物事を選択、決定、行動する。彼はそれを自分の意志であるかのように錯覚させられるのだ。もうマーフィーに自由意志などはない。それはまやかしなのだ。
吉川の「パンツァークラウンフェイセズ」が思い起こされる者もいるだろうか。その作品の中で、人は己の行動をUn-faceと呼ばれるシステムによって統御されており、自身の過去の選択や社会の諸相とのマッチングなどにより将来の行動が「最適化」され、提示される。そこには最早己の意志などありはしないのだ。「あるように思っている」だけなのだ。
旧作と新作のロボコップ。その間には27年の歳月が横たわっている。そこで何が起きたのだろうか。この2作の差は、監督や制作陣の性向の違いというよりも、それを取り巻く社会の違いであるように私は思う。特に今作の「人間の行動と、その意志」に関する問題に関していえば企業のマーケティングにおける顧客の消費行動の分析や、社会学、行動心理学などの普及(昔からある分野にせよ、学者のみならず大衆が自分達の行動を分析し、それを発信出来る地位を獲得したことが特に大きなものだと思う)があるだろう。人は自分の行動が自分の知覚できる意思以上のものに左右されるということを受け入れつつある。
魂がそぎ落とされたマーフィー。玉ねぎの皮をむくように一枚一枚はぎ取られていく彼の人間性は、その中心に何も残らなかったのだろうか。それは否だ。彼はオムニ社に施された改造手術の影響を乗り越え、徐々に人間らしさを取り戻していく。彼が最後に回帰したのは、家族への愛であった。生殖機能が失われ、次代を生み出すことは叶わなくなったが、妻と息子を守る意志だけは捨てなかった。自分を守るためには決して発揮されなかった「優先順位を破ってまでも行動する力」は確かに二度、家族を守るために行使されたのだ。
コメント
なかなかの作品ということでは?
このロボコップは無いかな~と思っていましたが、
魂とかゴーストとか深い話なら見たくなってきました。
まあ、アクションとしてみれば普通
>下
戦争に関していえば、冒頭とはいえ企業が戦争を代行するSF的世界がいよいよ現実のものになったか、という気にもさせられましたね