粗筋
夢の中で世界滅亡を意味するかのような光景を目にしたノア。それが神からのお告げであり、全世界を飲み込むほどの大洪水がやって来ると悟った彼は、その日から家族と共に一心不乱になって巨大な箱舟を造る。さらに、生命を絶やさぬようにと、この世の全ての種類の動物を次々と箱舟に乗せていく。だが、ノア一家の前に不安に駆られて箱舟を奪おうとする者たちが立ちはだかる。
感想
うーん映画としては凡。考察にさっさと行きます。
家族と愛、神の使命とかの考察は省略。誰かやるしね。
ここでする考察としては神への反逆は果たして悪か、について。
この映画で悪はトバルカインという蛮族の長が全てを体現する。彼はかつてノアの父親を殺して鉱山を奪い、そしてノアが方舟をつくるために神の与えた森を伐採し、あまつさえノアの方舟を奪取しようとする。
彼に見る物としては「生きること」「氏出生を厭わない」「己の意志による世界の変革」の3点だ。
彼は確かにノアの父を殺した悪人だった。しかしそれは生きるためだった。神は彼に不毛の地しか与えなかった。そのため、暴力で奪うしかなかった。彼は別に私腹を肥やして余剰資産を増やすなどを考えることはなかった。ただ、生きるために必要だったのだ。それは映画中盤、人が人を食らい合うシーンでもわかる。何故彼は神に祝福されなかったのか。それはカインの子孫だったからだ。
カインとはアダムとイブの子で、嫉妬により弟のアベルを殺し野に放逐された。その子孫であるトバルカインは、神に祝福されない。ノアにまつわるものは、全てその「出生、家族性」が重視される。ノアは善なる子孫である。ノアの養女、イラは長く不妊(不妊の単語barrenは不毛を意味する。トバルカインは不毛の地が運命づけられている)であったが、ノアの祖父の『家族になる』祝福でその不妊が治る。
トバルカインはノアの子、ハムを「傀儡にしてノアの方舟に潜り込もう」と思って接触してのではない。それは最初の邂逅でもわかる。彼は方舟に辛くももぐりこんでハムに助けてもらって以降、繰り返しハムに「男になれ(to be a man)」と説く(ここ「人間」って戸田さん訳してるんだけどどうかなあ?個人的にハムは『つがいになれないこと』に深いコンプレックスを抱いていたのだから、男だと思うが)。彼はハムの中に、自分と同じものを見たのだ。だから彼はハムによって殺されるが、死の間際にノアの家系につたわる善なる蛇の抜け殻を渡し「男になった」と遺言を残して逝く。言葉を遺したことからもわかるように、それはハムに対する餞別ではあるだろうが、「ノアの家系に抜け殻を戻す」という意味合いではないだろう。恐らくは力や意志の象徴として渡したのではないか。
ではトバルカインは無駄に生き、無駄に死んだのだろうか。私は違うと思う。彼は意志を示した。答えてくれぬ神に成り代わり、世界を支配しようとした。彼の率いた軍隊は、方舟こそ奪えなかったにせよ、ウォッチャー(ネフィリム)を確かに殺せたのだ。それはウォッチャーを殺し始めるシーンで、軍隊が重武装に変わったのでわかるように、技術なのだ。トバルカインは「鍛冶の開祖」である。技術によって、「人間一人で終わるのではなく、氏出生でもなく、意志で思考で『共有し、受け継がれる』ものとしての技術」によって、人を超越した存在を殺せたのだ。彼の意志はハムに受け継がれた。
神への反逆者は楽土を追われる。ハムも聖書とは違う描き方にせよ、安楽の地を離れた。その後の彼そして彼の先祖の歩みは平坦なものではなかっただろう。だが、盲目的に、「私たちは特別だから救われる」と説いた宗教と、技術と意志と変革を求め続けた(デカルト以後の)理性。どちらが「産」み、「増や」し、「地に満ち」たかは、時代が証明しているのではないだろうか。
夢の中で世界滅亡を意味するかのような光景を目にしたノア。それが神からのお告げであり、全世界を飲み込むほどの大洪水がやって来ると悟った彼は、その日から家族と共に一心不乱になって巨大な箱舟を造る。さらに、生命を絶やさぬようにと、この世の全ての種類の動物を次々と箱舟に乗せていく。だが、ノア一家の前に不安に駆られて箱舟を奪おうとする者たちが立ちはだかる。
感想
うーん映画としては凡。考察にさっさと行きます。
家族と愛、神の使命とかの考察は省略。誰かやるしね。
ここでする考察としては神への反逆は果たして悪か、について。
この映画で悪はトバルカインという蛮族の長が全てを体現する。彼はかつてノアの父親を殺して鉱山を奪い、そしてノアが方舟をつくるために神の与えた森を伐採し、あまつさえノアの方舟を奪取しようとする。
彼に見る物としては「生きること」「氏出生を厭わない」「己の意志による世界の変革」の3点だ。
彼は確かにノアの父を殺した悪人だった。しかしそれは生きるためだった。神は彼に不毛の地しか与えなかった。そのため、暴力で奪うしかなかった。彼は別に私腹を肥やして余剰資産を増やすなどを考えることはなかった。ただ、生きるために必要だったのだ。それは映画中盤、人が人を食らい合うシーンでもわかる。何故彼は神に祝福されなかったのか。それはカインの子孫だったからだ。
カインとはアダムとイブの子で、嫉妬により弟のアベルを殺し野に放逐された。その子孫であるトバルカインは、神に祝福されない。ノアにまつわるものは、全てその「出生、家族性」が重視される。ノアは善なる子孫である。ノアの養女、イラは長く不妊(不妊の単語barrenは不毛を意味する。トバルカインは不毛の地が運命づけられている)であったが、ノアの祖父の『家族になる』祝福でその不妊が治る。
トバルカインはノアの子、ハムを「傀儡にしてノアの方舟に潜り込もう」と思って接触してのではない。それは最初の邂逅でもわかる。彼は方舟に辛くももぐりこんでハムに助けてもらって以降、繰り返しハムに「男になれ(to be a man)」と説く(ここ「人間」って戸田さん訳してるんだけどどうかなあ?個人的にハムは『つがいになれないこと』に深いコンプレックスを抱いていたのだから、男だと思うが)。彼はハムの中に、自分と同じものを見たのだ。だから彼はハムによって殺されるが、死の間際にノアの家系につたわる善なる蛇の抜け殻を渡し「男になった」と遺言を残して逝く。言葉を遺したことからもわかるように、それはハムに対する餞別ではあるだろうが、「ノアの家系に抜け殻を戻す」という意味合いではないだろう。恐らくは力や意志の象徴として渡したのではないか。
ではトバルカインは無駄に生き、無駄に死んだのだろうか。私は違うと思う。彼は意志を示した。答えてくれぬ神に成り代わり、世界を支配しようとした。彼の率いた軍隊は、方舟こそ奪えなかったにせよ、ウォッチャー(ネフィリム)を確かに殺せたのだ。それはウォッチャーを殺し始めるシーンで、軍隊が重武装に変わったのでわかるように、技術なのだ。トバルカインは「鍛冶の開祖」である。技術によって、「人間一人で終わるのではなく、氏出生でもなく、意志で思考で『共有し、受け継がれる』ものとしての技術」によって、人を超越した存在を殺せたのだ。彼の意志はハムに受け継がれた。
神への反逆者は楽土を追われる。ハムも聖書とは違う描き方にせよ、安楽の地を離れた。その後の彼そして彼の先祖の歩みは平坦なものではなかっただろう。だが、盲目的に、「私たちは特別だから救われる」と説いた宗教と、技術と意志と変革を求め続けた(デカルト以後の)理性。どちらが「産」み、「増や」し、「地に満ち」たかは、時代が証明しているのではないだろうか。
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