粗筋

1960年代、インドネシアでは西側諸国の支援を受け、共産主義者が100万人虐殺された。映像作家のジョシュアは当局に被害者との接触を禁じられたため、加害者、虐殺の当事者たちに目を向けた。今では英雄として暮らしている彼らに「あの頃を再現する演技を行わないか」と告げる。彼らの行いを通じることで、ジョシュアは虐殺の歴史を現代に提示する。

感想

 これは虐殺を可視化することで、生命の大切さを訴える映画だろうか?私はそうは思わない。これは虐殺を正当化させる目的の映画だと思う。それは2重の意味であり、メタ構造を有している。それは演技する側の「プレマン」であり、その上部レイヤーたる「監督側」の意識だ。ドキュメンタリーというもともと小数な作品形態の中で、それを顕在化させるのはおおよそ初めての試みではないだろうか?

 映画はヴォルテールの格言により始まる。虐殺は体制側が、華々しく行うことに限り正当化される。ヴォルテール自身、「寛容論」の中でキリスト教内における虐殺について記している。
 映像はそこから虐殺を自分達の手で行った「プレマン」たちへのインタビューに移る。プレマンとは現地の言葉でfree manを指す。縛りに囚われぬ自由な人。聞こえはいいが要はoutlaw、ならず者である。50年前、このならず者たちが共産主義者を虐殺したのだ。
 人を殺す際に針金で首を絞めれば簡単に殺せること、殺した後は頭陀袋に包んで捨てたこと、反抗した奴は殺したこと…。彼らはいずれも嬉々として話す。何かがおかしい。この頃から観客は思い始めるだろう。何故プレマンたちはこうも人殺しを追憶して楽しそうなのだろう。何故辛かった、であるとか、後悔している、という言葉を発さないのか。彼らには罪悪感が欠如している。
 中盤ではプレマンたち自身によって映像をどうあるべきか、が討議される。その中でヘルマンという男は「映像が退屈にならないために笑いが必要だ」と提案し、謎の挿話が付け加えられる。ヘルマンが女装した共産主義者になり、滑稽に殺されるシーン。アンワルという虐殺のリーダーが夢の中で見た悪魔の話。アンワルは映画が好きだったと云い、昔の頃の写真などを見せるが、そこには泥臭さしか感じない。自分達で「映像作り」をしていると自認する彼らはまるで一端の監督を気取っているかのようだ。しかしその実誠に退屈で、題材が題材ということもあり不快感が募っていく。
 虐殺者は今どんな生活をしているのか?彼らは英雄として暮らしている。ヘルマンは政治進出を目論むほどの名士だ。しかし資金繰りのために華僑を脅し、金を巻き上げるギャングなのだ。
 映像の最後に、アンワルが50年前を振り返り悔悟するようなシーンが挿入される。彼は自分の行いを悔いているのか?しかし孫に拷問のシーン(わざわざ特殊メイクを施されており、とてもグロテスクなものだ)のビデオを楽しそうに見せたり、処刑に使った屋上で大げさにえずいた彼の眼に一粒の涙すら浮かんでいないこと、ヘルマン主導の悪趣味なお笑いシーンで、共産主義者の幽霊役が首から針金を外し「どうも殺してくれてありがとう」と語るところで一縷の希望すら絶たれる。

 映像を通してプレマンたちが悪逆非道を喜んで成してきた屑どもで、一切の罪悪感を持たぬ冷血で、今現在も社会に寄生するようなゴミであることが彼ら自身の演技で分かった。そして彼らは自分達がそうであることに誇りすら抱いているのだ。なら我々はどうすべきか?
 決まっている。彼らを排除すればいいのだ。
 彼らは人間ではない!(60年前の共産主義者のように!)
 彼らはこの社会にとって悪なのだ!(60年前の共産主義者のように!)
 彼らは生かしておいてはならない!(60年前の共産主義者のように!)
 彼らを殺せ!プレマンは皆殺しにしろ!
 これにて歴史の「再現」はなされた。実際に行動するしないは別にせよ、ジョシュア監督は人殺しを正当化し、害意を抱くプロセスを提示したのだ。Act of killing。まっこと素晴らしきタイトルである。

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