プリティーウーマン 魔女っこ姉妹のヨヨとネネ
2014年1月6日 趣味プリティーウーマン
粗筋
やり手の企業買収家の主人公は、ハリウッドで慣れない運転で四苦八苦しているところをコールガールの女性に助けられ、関係を持つ。彼女の天真爛漫さに徐々に彼は惹かれていく。
感想
良い映画っすね。
この映画はアメリカ版シンデレラストーリーとよく評されるのだけれど、そんな簡単な映画じゃないよ。
女主人公のヴィヴィアンは高校中退をして人生の敗北者となった娼婦、アメリカンドリーム的な夢の敗残者な訳。更に言えば彼女が娼婦という最低階級の存在であることにもある種の必然性が込められていると思う。
何時の世も社会階級の上辺以外の存在は、その支配体制を覆すカオスの力を持った存在として描かれる。この映画でもヴィヴィアンは凡そ上流階級の人と付き合うにはふさわしくない挙動ばかり取る。特に意識的に描かれているのは大きく口を開けて笑うところかな。序盤のレストランのシーンまでに、彼女の「下級階級さ」を描く装置として一番登場が多いんじゃないかな。逆に言えば、こういう本能をリストレインしないことこそが、生命のvividさを描くものであり、理性ではあらがえないほど強く惹かれる要素でもある。
はてさて、そういう身分違いの恋なんぞは昔からあるもの。ブロンテの「ジェインエア」もその好例。しかしジェインはガヴァネスであり、準支配階級のもの。プリティーウーマンでは社会の最底辺たる娼婦身分な訳だが、これはアメリカの資本主義の批判なのやらさてやら。イギリス文学の変遷において言われることだが、身分制の解体のよって「己の職分たる地位が崩壊し、却って失敗した際に落ちるところまで落ちる不安定さが増した」と言われるが、資本主義花咲くアメリカでは、一歩躓けば娼婦足りうる怖さを表しているということか。
そしてその「愛」を買うことも、最初は金を仲立ちとしたものだということは、ハニフクレイシのマイビューティフルランドレッドの一シーンも想起させる。金で買える、金を稼ぐ自由は人の尊厳を奪い、また自分の帰属意識を奪い、所在なさを生む。それはヴィヴィアンだけではなく、金を持つルイスの孤独ではないだろうか?
ヴィヴィアンは超金持ちのルイスのお抱えとなって以降はマナーを身に着け、服をまとい、上流階級の仲間入りを果たす。しかし彼女は飽く迄外面のみをこぎれいにしただけであり、その本質は変わっていない。
つまりヴィヴィッドは薄汚い娼婦のままなのだろうか?彼女の同僚の娼婦が見違えた彼女に対して云った「cleaned up」にも象徴されている。陶冶、洗練はないのだ。それではどうしたか。
最後にヴィヴィアンは「実は頭は良かった」とある種蛇足とも思えるつけたしを行うのだ。これであたかもヴィヴィアンが成長したかのような錯覚を起こさせつつ、その上で何も成長はなかったと明示してみせる。教養小説からイニシエーション小説へ、社会階級の上昇から人格の成長へと描いてきた文学の流れをさかのぼり、いや、合成したかのような作りに作り手の思いが込められているように思う。
まあね。一番の見どころはね、ラストシーンで髪の毛くしゃっとやるところですよ。もともと「髪をしっかりなでつける」ことは彼女の娼婦性の象徴だった。それをルイスの前では地毛の赤髪をふり乱したヘアスタイル=素の自分の吐露をしていた。しかし、最後ではその中間のような、髪の乱し方をすることで、変化を表現する。これはもっていかれましたわ。
~~~~~
魔女っこなんたら
粗筋
魔の国と人間界の間でなんかトラブルあって、魔法少女が出てくる感じ
感想
惜しい。いいものはもってるんだけどなー。
今作で自分として見どころだと思ったのは、魔女たちの魔の国の持つ「死生観」が、人間界のものとは違うこと。仮令死んでも魂を戻すことでいくらでも蘇生をすることが出来る。従来ギャグとして描かれることが多いようなこういう「ザオリク」表現を、こういう風に持ってくるか―、と感心しました。
死の意味が薄れているので、魔女たちは死を悲しむという人間たちの気持ちが理解できない。魔女っこのヨヨは現世で散々人間たちの悲しみを「オーバーだなあ」と首をかしげて見せる。
「あ、これ絶対伏線になるだろ!」と思っていた。
のに。
ならなかった。
えー、異世界もの(の名作)っていうのは、その世界そのものの隔絶よりも、その世界の差異によって、知的生命体の種族間の価値観の相違を描き、そこでの確執相克を物語の面白さにするわけじゃないですかー(それを分かっていない日本のクソラノベのなんと悲しきことよ。まるで剣と魔法を出せばそれで馬鹿な読者が満足するかのように思っている)
しかも、明らかに明示的にそれを表現していたのに、何もありませんでした、っていうのはなー。最後に現世に迷い込んできた先輩魔女の人間との恋物語を見て泣くシーンがあるんだけど、それちょっと違うんじゃないのかなーと思った。だって死は悲しくないんじゃないの?前半で死とかへっちゃらぽん、って描いておきながら、後半で生きているって素晴らしい、って言う表現をするのはちょっと監督さん頭ついてないのかなと思った。
というか、この映画明らかに世界観の広遠さに比べて表現できているところが狭いんだよなー。原作有木なのはわかるけど、もう少しなんとかならなかったのか。
まあでも、主人公きゃわたんですよ。きゃわたんきゃわわ。
萌え豚専用ですな。
http://www.movient.net/archives/35994911.html#more
粗筋
やり手の企業買収家の主人公は、ハリウッドで慣れない運転で四苦八苦しているところをコールガールの女性に助けられ、関係を持つ。彼女の天真爛漫さに徐々に彼は惹かれていく。
感想
良い映画っすね。
この映画はアメリカ版シンデレラストーリーとよく評されるのだけれど、そんな簡単な映画じゃないよ。
女主人公のヴィヴィアンは高校中退をして人生の敗北者となった娼婦、アメリカンドリーム的な夢の敗残者な訳。更に言えば彼女が娼婦という最低階級の存在であることにもある種の必然性が込められていると思う。
何時の世も社会階級の上辺以外の存在は、その支配体制を覆すカオスの力を持った存在として描かれる。この映画でもヴィヴィアンは凡そ上流階級の人と付き合うにはふさわしくない挙動ばかり取る。特に意識的に描かれているのは大きく口を開けて笑うところかな。序盤のレストランのシーンまでに、彼女の「下級階級さ」を描く装置として一番登場が多いんじゃないかな。逆に言えば、こういう本能をリストレインしないことこそが、生命のvividさを描くものであり、理性ではあらがえないほど強く惹かれる要素でもある。
はてさて、そういう身分違いの恋なんぞは昔からあるもの。ブロンテの「ジェインエア」もその好例。しかしジェインはガヴァネスであり、準支配階級のもの。プリティーウーマンでは社会の最底辺たる娼婦身分な訳だが、これはアメリカの資本主義の批判なのやらさてやら。イギリス文学の変遷において言われることだが、身分制の解体のよって「己の職分たる地位が崩壊し、却って失敗した際に落ちるところまで落ちる不安定さが増した」と言われるが、資本主義花咲くアメリカでは、一歩躓けば娼婦足りうる怖さを表しているということか。
そしてその「愛」を買うことも、最初は金を仲立ちとしたものだということは、ハニフクレイシのマイビューティフルランドレッドの一シーンも想起させる。金で買える、金を稼ぐ自由は人の尊厳を奪い、また自分の帰属意識を奪い、所在なさを生む。それはヴィヴィアンだけではなく、金を持つルイスの孤独ではないだろうか?
ヴィヴィアンは超金持ちのルイスのお抱えとなって以降はマナーを身に着け、服をまとい、上流階級の仲間入りを果たす。しかし彼女は飽く迄外面のみをこぎれいにしただけであり、その本質は変わっていない。
つまりヴィヴィッドは薄汚い娼婦のままなのだろうか?彼女の同僚の娼婦が見違えた彼女に対して云った「cleaned up」にも象徴されている。陶冶、洗練はないのだ。それではどうしたか。
最後にヴィヴィアンは「実は頭は良かった」とある種蛇足とも思えるつけたしを行うのだ。これであたかもヴィヴィアンが成長したかのような錯覚を起こさせつつ、その上で何も成長はなかったと明示してみせる。教養小説からイニシエーション小説へ、社会階級の上昇から人格の成長へと描いてきた文学の流れをさかのぼり、いや、合成したかのような作りに作り手の思いが込められているように思う。
まあね。一番の見どころはね、ラストシーンで髪の毛くしゃっとやるところですよ。もともと「髪をしっかりなでつける」ことは彼女の娼婦性の象徴だった。それをルイスの前では地毛の赤髪をふり乱したヘアスタイル=素の自分の吐露をしていた。しかし、最後ではその中間のような、髪の乱し方をすることで、変化を表現する。これはもっていかれましたわ。
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魔女っこなんたら
粗筋
魔の国と人間界の間でなんかトラブルあって、魔法少女が出てくる感じ
感想
惜しい。いいものはもってるんだけどなー。
今作で自分として見どころだと思ったのは、魔女たちの魔の国の持つ「死生観」が、人間界のものとは違うこと。仮令死んでも魂を戻すことでいくらでも蘇生をすることが出来る。従来ギャグとして描かれることが多いようなこういう「ザオリク」表現を、こういう風に持ってくるか―、と感心しました。
死の意味が薄れているので、魔女たちは死を悲しむという人間たちの気持ちが理解できない。魔女っこのヨヨは現世で散々人間たちの悲しみを「オーバーだなあ」と首をかしげて見せる。
「あ、これ絶対伏線になるだろ!」と思っていた。
のに。
ならなかった。
えー、異世界もの(の名作)っていうのは、その世界そのものの隔絶よりも、その世界の差異によって、知的生命体の種族間の価値観の相違を描き、そこでの確執相克を物語の面白さにするわけじゃないですかー(それを分かっていない日本のクソラノベのなんと悲しきことよ。まるで剣と魔法を出せばそれで馬鹿な読者が満足するかのように思っている)
しかも、明らかに明示的にそれを表現していたのに、何もありませんでした、っていうのはなー。最後に現世に迷い込んできた先輩魔女の人間との恋物語を見て泣くシーンがあるんだけど、それちょっと違うんじゃないのかなーと思った。だって死は悲しくないんじゃないの?前半で死とかへっちゃらぽん、って描いておきながら、後半で生きているって素晴らしい、って言う表現をするのはちょっと監督さん頭ついてないのかなと思った。
というか、この映画明らかに世界観の広遠さに比べて表現できているところが狭いんだよなー。原作有木なのはわかるけど、もう少しなんとかならなかったのか。
まあでも、主人公きゃわたんですよ。きゃわたんきゃわわ。
萌え豚専用ですな。
http://www.movient.net/archives/35994911.html#more
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