サイコ かぐや姫の物語 観賞
2013年11月26日 趣味 コメント (2)サイコ
午前10時の映画祭枠。
語ることがおろかに思えてくる名作。サイコスリラーという大ジャンルをたった一作で完成させた鬼作。
この狂気と美しさを兼ね備えたOP
http://www.youtube.com/watch?v=kOsgZWmvW50
から、あの伝説の笑みの終わり方まで。一ミリの隙もない、まさに天才ヒッチコックにしか作りえなかった映画です。
~~~
かぐや姫の物語
粗筋
大体古典通り。
感想
惜しい。惜しいね。非常に高水準の映画だけれど、100点をつけられない。
映像はね、予告通り凄まじい。水彩画の絵をそのまま規格外の枚数ブチ込んで動画にしてる感じ。作画枚数50万枚だからね。ファンタジアの枚数は100万枚だけど、あれは別格の基地外映画だからね…。
映像は文句のつけようはなかったのだけれど、内容にいくつか不満が出た。
先ず良かったところはかぐや姫の性格を天真爛漫で心に芯が通っている強さがあり、感情表現が豊かなところ
世にかぐや姫の同人もとい創作は数あれど、神経質で腺病質なものが多いのは事実。後は少女漫画系でツンデレとかね。こういう純真な性格にしたおかげで、子供時代から一貫した「可愛い」少女像を描けたのは強み。それと映画テーマにも通じる「天界で犯した罪」にも自然とつなげられた。
それよりももっと良かった点は、女童とかぐや姫の物語を描いていたこと。AAのクソネミ( ˘ω˘ )みたいな顔してる癒し系キャラで、かぐや姫の付き人をしながら、屋敷から出られない彼女のために桜の枝を手折ってきたり、いざ天人が来るときにはねじり鉢巻きに薙刀のいでたちで構えたりとなかなか良いキャラ。天人に連れ去られる寸前、わらべ歌を歌ってかぐや姫をほんのひと時だけ正気に戻すシーンがあるが、これこそが彼女ら2人の仲が親密だったことの証。それ以前のシーンではかぐや姫が女童に歌を聴かせるシーンがなかったため、ここで初登場することで却って二人の友情が深いものだったことが初めてわかる。かぐや姫の創作もので恋愛ものは数あれど、こういう純粋な友情を描いたものは少ないのではなかろうか。
考察点としては、生きること=ケガレ、罪なのかということ。
かぐや姫は地球という汚れた地に憧れ、それゆえに罰としてその汚れた地に落とされた。そしてその地で生き、育ち、やがては一人の人間となるのだが、その地で人の心の醜さと自分のふがいなさを嘆き、それが引き金となり天からの迎えが来る=流刑が終わることとなる。しかしかぐや姫は同時にこの地で生きることの素晴らしさを理解する。それが2つの軸、一つはわらべ歌にもあるようなあめつちの中で生命の素晴らしさを実感すること、そしてもう一つは捨て丸との仲のように男と女として(或は生殖を通じて次代に命を繋ぐこと?)の素晴らしさ。後者は明確には描かれてはいないが、捨て丸との再会後、空を飛ぶシーンとかで抱き合っている描写からも男女間の関係性を示唆してはいるね。頭でっかちになってはいかんよと。ただ結局のところ、導き出されるのが動物的な生き方を礼賛しているように読み取れること。人と獣の違いをもっと意識して欲しかった。
さて不満点。かぐや姫の呼称について。
竹取の翁は、かぐや姫が村の悪童どもにたけのことはやし立てられたのに対抗するように「姫」と彼女を呼び、以後ずっとかぐや姫にかしづくように、姫、姫と彼女を崇め奉る。これに対して媼の方はずっと変わらずかぐや姫を娘として慈しんで育てようとする。そのためかぐや姫のことを姫とは呼ばず、お前、この子という呼び方をする。かぐや姫が月に帰ることを告げるまで、彼女のことを「姫」と呼んだのは2回だけである。そしてそのことが告げられ、翁も自分の過ちに気づき、かぐや姫をもう一度「お前」と呼ぶ。
ここまではいいんだ。
じゃあなんですぐに「姫」と面と向かって呼ぶんだ!?
しかも!かぐや姫が帰った後に媼を掻き抱き懺悔するシーンで何で「姫よ、すまない」というんだ!?
「姫」という呼称こそが彼女を自分たちの子供と思わず、社会的序列の中で、5人の貴公子のように「もの」としてみることの証なのだろう。それならば何故自分の過ちを悔いた後にもこんな呼称を台詞の中で登場させるのか。
我慢ならないよ、余りにも無神経が過ぎる。脚本家は腹切って死ね。頭が足りなさすぎる。
まあ惜しい映画ですわ。これ、どうせ売れないんだろうなあ…。日本のアニメも終わりやね。
午前10時の映画祭枠。
語ることがおろかに思えてくる名作。サイコスリラーという大ジャンルをたった一作で完成させた鬼作。
この狂気と美しさを兼ね備えたOP
http://www.youtube.com/watch?v=kOsgZWmvW50
から、あの伝説の笑みの終わり方まで。一ミリの隙もない、まさに天才ヒッチコックにしか作りえなかった映画です。
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かぐや姫の物語
粗筋
大体古典通り。
感想
惜しい。惜しいね。非常に高水準の映画だけれど、100点をつけられない。
映像はね、予告通り凄まじい。水彩画の絵をそのまま規格外の枚数ブチ込んで動画にしてる感じ。作画枚数50万枚だからね。ファンタジアの枚数は100万枚だけど、あれは別格の基地外映画だからね…。
映像は文句のつけようはなかったのだけれど、内容にいくつか不満が出た。
先ず良かったところはかぐや姫の性格を天真爛漫で心に芯が通っている強さがあり、感情表現が豊かなところ
世にかぐや姫の同人もとい創作は数あれど、神経質で腺病質なものが多いのは事実。後は少女漫画系でツンデレとかね。こういう純真な性格にしたおかげで、子供時代から一貫した「可愛い」少女像を描けたのは強み。それと映画テーマにも通じる「天界で犯した罪」にも自然とつなげられた。
それよりももっと良かった点は、女童とかぐや姫の物語を描いていたこと。AAのクソネミ( ˘ω˘ )みたいな顔してる癒し系キャラで、かぐや姫の付き人をしながら、屋敷から出られない彼女のために桜の枝を手折ってきたり、いざ天人が来るときにはねじり鉢巻きに薙刀のいでたちで構えたりとなかなか良いキャラ。天人に連れ去られる寸前、わらべ歌を歌ってかぐや姫をほんのひと時だけ正気に戻すシーンがあるが、これこそが彼女ら2人の仲が親密だったことの証。それ以前のシーンではかぐや姫が女童に歌を聴かせるシーンがなかったため、ここで初登場することで却って二人の友情が深いものだったことが初めてわかる。かぐや姫の創作もので恋愛ものは数あれど、こういう純粋な友情を描いたものは少ないのではなかろうか。
考察点としては、生きること=ケガレ、罪なのかということ。
かぐや姫は地球という汚れた地に憧れ、それゆえに罰としてその汚れた地に落とされた。そしてその地で生き、育ち、やがては一人の人間となるのだが、その地で人の心の醜さと自分のふがいなさを嘆き、それが引き金となり天からの迎えが来る=流刑が終わることとなる。しかしかぐや姫は同時にこの地で生きることの素晴らしさを理解する。それが2つの軸、一つはわらべ歌にもあるようなあめつちの中で生命の素晴らしさを実感すること、そしてもう一つは捨て丸との仲のように男と女として(或は生殖を通じて次代に命を繋ぐこと?)の素晴らしさ。後者は明確には描かれてはいないが、捨て丸との再会後、空を飛ぶシーンとかで抱き合っている描写からも男女間の関係性を示唆してはいるね。頭でっかちになってはいかんよと。ただ結局のところ、導き出されるのが動物的な生き方を礼賛しているように読み取れること。人と獣の違いをもっと意識して欲しかった。
さて不満点。かぐや姫の呼称について。
竹取の翁は、かぐや姫が村の悪童どもにたけのことはやし立てられたのに対抗するように「姫」と彼女を呼び、以後ずっとかぐや姫にかしづくように、姫、姫と彼女を崇め奉る。これに対して媼の方はずっと変わらずかぐや姫を娘として慈しんで育てようとする。そのためかぐや姫のことを姫とは呼ばず、お前、この子という呼び方をする。かぐや姫が月に帰ることを告げるまで、彼女のことを「姫」と呼んだのは2回だけである。そしてそのことが告げられ、翁も自分の過ちに気づき、かぐや姫をもう一度「お前」と呼ぶ。
ここまではいいんだ。
じゃあなんですぐに「姫」と面と向かって呼ぶんだ!?
しかも!かぐや姫が帰った後に媼を掻き抱き懺悔するシーンで何で「姫よ、すまない」というんだ!?
「姫」という呼称こそが彼女を自分たちの子供と思わず、社会的序列の中で、5人の貴公子のように「もの」としてみることの証なのだろう。それならば何故自分の過ちを悔いた後にもこんな呼称を台詞の中で登場させるのか。
我慢ならないよ、余りにも無神経が過ぎる。脚本家は腹切って死ね。頭が足りなさすぎる。
まあ惜しい映画ですわ。これ、どうせ売れないんだろうなあ…。日本のアニメも終わりやね。
コメント
1.厚化粧ギャグ
五人の皇子が姫に求婚する場面。唯一原作と違い 石作皇子が誠実な気持ちで心からの姫への想いを「一輪の野花」に託して献上。と同時に将来喧噪の都を離れつつましいが心豊かな生活をしようと哀願する。ところが母親が特殊メイクでブサイク女に変身し姫と入れ替わり、それを見た皇子は驚き退散する。私は、てっきり この二人は結ばれるのか~これが監督の新演出か~とワクワクしたあとなので、完全にドンデン返しを食らい ポカーン状態となりました。
ただその母親の顔を見て大爆笑しました。が、こんな吉本新喜劇みたいなギャグで笑ってていいのかと自問。母親はチャラ男を見抜いていたとの前提なのでしょうが、梯子をはずされた感満載です。本当は、チャラ男なのよ ということなら石田純一を声優にすべき。演技面でいえば、声優上川隆也の演技は、誠実そのもので下心があるような演技はなかった。プレスコで俳優の演技の表情をうつしとったのではないのか?(注:プレスコは、声を先に収録し、作画をその演技を見ながら行うこと)
上川隆也は09年に難病の元女優と結婚した優しい人のイメージ。完全に 『ミスキャスト』 か 『演出不足』。
なぜ、この皇子のところで わざわざ原作と違う挿話をいれたのか その意図が不明。
2.不倫礼賛
終盤での幼馴染の”捨丸”兄ちゃん(妻子あり)と姫との再会場面。 兄ちゃんは、『妻・子のことをまったく忘れ去り』 姫と抱擁し恋の炎を燃やし 実写では2分くらい延々と 二人が手に手を取って大空を飛び回るシーンが映し出される。姫は妻子ありとは知らず罪はない。
高畑監督が、なぜか映像化せず”隠している”場面=『取り残された妻子が、自分たちの頭の上で 手をつなぎ・抱き合い・笑いながら空を飛びまわっている『主人と不倫相手(かぐや姫)』を 心配そうな不安そうな悲しそうな顔(アップ)で見ている場面』。
高畑監督には、ぜひこの場面(同様に2分間延々と流す)を追加した『訂正版かぐや姫』を再上映願いたい。観客の反応は、どうかわるでしょうか? 『夢の中』だから「いいでしょっ」って声も。夢のなかでもアングルをかえれば、上記シーンは存在するはずですね。
『姫の罪と罰』というキャッチコピーは間違いで、『捨丸の罪と罰』。子供には薦められません。「高畑監督、道徳観大丈夫?」
3.帝(みかど=天皇)ハーレム王
この映画の脚本は、当時の天皇が『かぐや姫』を”無理やり犯そう”として失敗。その事が原因で月へ帰ってしまう(終)という内容。一方原作は、”手紙や物の交換をして交流するという雅(みやび)な交際をし、心がかよい始める(いい感じ)という筋書き”となっていて 大きく変貌。
『ライト』スタンドの観客からは、メガフォンがとんできそうです。ブーイングもすごそう。
『レフト』スタンドへ どうしてもサヨナラホームランを打ちたかったようです。レフト観客は大喝采。
個人的には「品」がないと思います。キャバクラでおっさんが、おねえちゃんを口説いてる風な「のり」ですから。 この映画、海外にはもっていかない方がいいですね。『日本』のイメージを「↓」げるのではないでしょうか・・・。
自分のご先祖がこう言ってたら、はずかしいです。
「私に抱かれたくないと思う女性は、この世に一人もいない」(by☆現天皇のご先祖の「アゴの帝」☆)
天皇皇后両陛下・皇族の皆様・『特にお子様達』が、この映画をご覧になったら・・・いやな印象・感慨をもたれるでしょうね・・・。
(おまけ)
「授乳シーンでの乳房のアップ」・「子どもの半裸、あるいは裸身のシーン」は、欧米圏、あるいはイスラム圏では上映に大きな制約がつく模様。米国では、PG13(=12歳以下の子供の観賞については、保護者の厳重な注意が必要)にするのが可能かどうかというより、不適切な内容(=R指定/17歳以下の観賞は保護者の同伴が必要)だという可能性大。ちなみに、もののけ姫は、PG13指定。
すんごい