MTG
一昨日純正コントロールみたいな相手のターンにしか考えない脳筋デッキでミスプを2回もしてしまったので、プレイングの難しさで云えば現スタンで1,2を争うデッキの赤黒吸血鬼を使う。参加者2人(あのさあ…)
相手は黒緑感染でデッキ相性で勝ち。今日試した新カードはメインの迫撃鞘とサイドの黒緑剣、骨溜め。
迫撃鞘は、恐血鬼と貴人の分恐らくその真価を一番発揮できるデッキタイプだと思ったから。黒緑剣は最近増えた青黒対策。
ぶっちゃけクリーチャーだけで云ったらボロスの超下位互換だし、闇の後見自体はボロスにもタッチして積める。吸血鬼にしかない強みはなんだろうかと考えると、呪詛術士、門番、恐血鬼ぐらい。
だけど最近はRUG、青黒両方で先駆のゴーレムの採用が増え、それに伴い青黒の除去が喉首から再びDBになりつつあるのでそれを完全に腐らせられるオール黒クリーチャーという構成、それになりより全くのメタ外故の経験知の少なさから相手のミスを拾い易いってこともあると思う。
そうは云ってもデッキパワー低いし、1ミスしても負けだし、サクリ占術の使い方が難しいし…。まあMTGしてる感じはする。
~~~~~
魔まマ考察
結論から云えば魔まマはタームポイントにならない。
要因その1:2011年という時代。
エヴァと攻殻機動隊が放送された1995年。セカイ系がノベルゲー、漫画の領域で大増殖を始めたこの年、日本では忘れられない大事件が2つ起きた。
阪神淡路大震災と、サリン事件である。
この2つの事件をきっかけとして、足元が突然なくなるような不安感、世界が壊れていった筈なのにそれをテレビでしか実感できない世界への疎外感が、漠然とした「あきらめ」を人々の間に生じさせ、その感覚は2001年の9月11日まで続くこととなる。
さて2011年はどうだろうか。震災と原発事故の年である。私は東日本震災は「ゲンジツ」を極限まで現実に肉薄させたと共に、行動の重要性を認識させた事件であるように思う。
2011年3月11日14時46分18秒に起きた大地震は直ちに各種マスコミによって報道され、また動画サイトやSNSを通じ、その日中に全世界へと一般の人の手によって広められた。
地震は地域災害である。それ故に被災地とその他の地域での認識は通常大きく異なることが多い。だが、このたびの震災は通信機器の発達による摂取される情報量の多さは元より、その地震の規模がもたらした原発事故により、本来被害を受けることのなかった関東圏の人々にも恐怖をもたらした。
3月12日、街の多くの商業施設がシャッターを閉め、駅は機能停止。学校は休校。東京の人々が異常であると感じたのはこの日が初ではないだろうか。
そしてそれ以後の一連の原発事故。「水道水は乳児に呑ませないでください」という報道と、東京で検出される放射能。原発機能停止による計画停電。
テレビの向こう側だった筈の「ゲンジツ」が、今使おうとしている水道水、パソコンを起動させるための電力を侵食する現実へと変わる恐怖感を、関東圏の人間でもその身で感じた筈だ。
そして、事態を収束させたのは人々の行動であることも否応なく知らされた。
ネットでの「拡散希望」呼びかけは大した効力も持たず逆にデマを流布させ、有名人たちのチャリティー、国を越えた義援金、大手サイトや街角募金が目に見える形として復興に充てられ、人々を勇気づけた。
原発事故に対して「東電が悪い東電が悪い東電死ね」とネットで毒づく間に、作業員は被爆し、自衛隊の注水活動が行われ、ひと時の小康状態を迎えた。
震災における「現実と行動」に対し、魔法少女まどか☆マギカはどうであったか。
このアニメは「虚構と祈り」が主眼である。
世界を破滅へと導く魔女との戦いは一般人には見えず、またその世界(イヌカレー劇場)も、とてもサイケデリックな風合いに表現されている。また、魔法少女は祈り、願いが全ての原理であり、その行動は重要視されない。願った時点で既に終わっているのだ。さやかは祈りを起点とし、魔女を退治する内に全てに絶望しグリーフシードを宿した。ほむらはまどかが魔女へと化さないことを祈り世界を繰り返したが、その努力自体は徒労であった。まどかは辛い経験を通じたが、祈りの一言だけで世界を救済した。
以上の事柄から、魔まマは時勢に反しており、時代を象徴しているとは思えないと云う事。まずこれが理由のその1。
要因その2:祈りと構造と演出と
魔まマは魂の救済を祈る物語である。簡単に各登場人物たちについて整理すると
巴マミ
望まぬまま魔法少女になり、一人で戦うことに疲れている。孤独からの解放を望んだがマミった。
結末…まどか自体はいなくなったが、ほむら、杏子と共同戦線を張っており、孤独自体からは救われた。
美樹さやか
幼馴染の障害を治し、出来れば彼と結ばれることを望む。魔法少女と化した我が身を嫌い、杏子に反発し滅私の方向へ。絶望のまま魔女と化した。
結末…絶望自体がなかったことに。幼馴染の障害は完治。彼の横に居ることは出来なくなった。(「これでよかったんだ、あいつのヴァイオリンをみんなに聴いてもらうことが出来たから満足」が本心であるのなら魂は救われた)
佐倉杏子
背景が特になく、ポジティブに魔法少女として行動。美樹さやかの魔女と共に心中。
結末…共同戦線においていつも通りに戦闘。そもそも救われるべき課題がない。
暁美ほむら
親友のまどかが魔法少女(後に魔女となることが運命づけられた存在)にならないことを望む。まどかが魔女になる前にソウルジェムを撃ち抜き、タイムリープしたように、まどかと共に生きることを望んでいる。まどかの世界改変に臨んだ他の唯一の魔法少女。
結末…まどかのいない世界で魔法少女となる。まどか自体は魔女になる存在ではなくなったが、まどかと共に生きることは出来なくなった。
鹿目まどか
他の登場人物たちの死、Qべえに見せられたビジョンにより、全ての魔法少女が魔女にならないことを望む。
結末…前時代全世界に偏在する存在となり、魔女と化す魔法少女たちの呪いを救済する。望みは完全にかなえられた。
長々と書いた訳だが、見ての通りその魂が救われていない登場人物たちが居る。そもそも各魔法少女たちの抱える問題が独立しており、問題を束ねる大きな枠組み、論理がないため、全てを救うことはほぼ不可能な訳ではあるが。
こう云うとこの物語はダメなものに思われてしまうが、それを補ってあまりあるのがその演出力の素晴らしさだ。
魔法少女まどか☆マギカの演出は非常に完成度が高く、見ていて「飽き」を感じさせない。構造上の問題が持ち上がる最終話終盤においても、さやかが観客席でまどかと佇むシーン、母親のリボンの話、ほむらが弓をつがえるシーン、それらによって視聴者のボルテージは上がる。
演出>構造になると、人は充足してそこで終わってしまう。些細な疑問や不満を吹き飛ばす満足感、幸福感は心を潤してくれるが、思考はそこで閉ざされる。粗探しのような振り返りを自然と拒否する姿勢があるから、この作品は「とても良い作品」という評価で終わってしまう気がするのだ。
まー何が云いたかったかと云うと、見ると気持ちが良くなるから(サブカル的)目の肥やしになるってこった。2011年最良最大アニメはもう決定事項だろうしね。
一昨日純正コントロールみたいな相手のターンにしか考えない脳筋デッキでミスプを2回もしてしまったので、プレイングの難しさで云えば現スタンで1,2を争うデッキの赤黒吸血鬼を使う。参加者2人(あのさあ…)
相手は黒緑感染でデッキ相性で勝ち。今日試した新カードはメインの迫撃鞘とサイドの黒緑剣、骨溜め。
迫撃鞘は、恐血鬼と貴人の分恐らくその真価を一番発揮できるデッキタイプだと思ったから。黒緑剣は最近増えた青黒対策。
ぶっちゃけクリーチャーだけで云ったらボロスの超下位互換だし、闇の後見自体はボロスにもタッチして積める。吸血鬼にしかない強みはなんだろうかと考えると、呪詛術士、門番、恐血鬼ぐらい。
だけど最近はRUG、青黒両方で先駆のゴーレムの採用が増え、それに伴い青黒の除去が喉首から再びDBになりつつあるのでそれを完全に腐らせられるオール黒クリーチャーという構成、それになりより全くのメタ外故の経験知の少なさから相手のミスを拾い易いってこともあると思う。
そうは云ってもデッキパワー低いし、1ミスしても負けだし、サクリ占術の使い方が難しいし…。まあMTGしてる感じはする。
~~~~~
魔まマ考察
結論から云えば魔まマはタームポイントにならない。
要因その1:2011年という時代。
エヴァと攻殻機動隊が放送された1995年。セカイ系がノベルゲー、漫画の領域で大増殖を始めたこの年、日本では忘れられない大事件が2つ起きた。
阪神淡路大震災と、サリン事件である。
この2つの事件をきっかけとして、足元が突然なくなるような不安感、世界が壊れていった筈なのにそれをテレビでしか実感できない世界への疎外感が、漠然とした「あきらめ」を人々の間に生じさせ、その感覚は2001年の9月11日まで続くこととなる。
さて2011年はどうだろうか。震災と原発事故の年である。私は東日本震災は「ゲンジツ」を極限まで現実に肉薄させたと共に、行動の重要性を認識させた事件であるように思う。
2011年3月11日14時46分18秒に起きた大地震は直ちに各種マスコミによって報道され、また動画サイトやSNSを通じ、その日中に全世界へと一般の人の手によって広められた。
地震は地域災害である。それ故に被災地とその他の地域での認識は通常大きく異なることが多い。だが、このたびの震災は通信機器の発達による摂取される情報量の多さは元より、その地震の規模がもたらした原発事故により、本来被害を受けることのなかった関東圏の人々にも恐怖をもたらした。
3月12日、街の多くの商業施設がシャッターを閉め、駅は機能停止。学校は休校。東京の人々が異常であると感じたのはこの日が初ではないだろうか。
そしてそれ以後の一連の原発事故。「水道水は乳児に呑ませないでください」という報道と、東京で検出される放射能。原発機能停止による計画停電。
テレビの向こう側だった筈の「ゲンジツ」が、今使おうとしている水道水、パソコンを起動させるための電力を侵食する現実へと変わる恐怖感を、関東圏の人間でもその身で感じた筈だ。
そして、事態を収束させたのは人々の行動であることも否応なく知らされた。
ネットでの「拡散希望」呼びかけは大した効力も持たず逆にデマを流布させ、有名人たちのチャリティー、国を越えた義援金、大手サイトや街角募金が目に見える形として復興に充てられ、人々を勇気づけた。
原発事故に対して「東電が悪い東電が悪い東電死ね」とネットで毒づく間に、作業員は被爆し、自衛隊の注水活動が行われ、ひと時の小康状態を迎えた。
震災における「現実と行動」に対し、魔法少女まどか☆マギカはどうであったか。
このアニメは「虚構と祈り」が主眼である。
世界を破滅へと導く魔女との戦いは一般人には見えず、またその世界(イヌカレー劇場)も、とてもサイケデリックな風合いに表現されている。また、魔法少女は祈り、願いが全ての原理であり、その行動は重要視されない。願った時点で既に終わっているのだ。さやかは祈りを起点とし、魔女を退治する内に全てに絶望しグリーフシードを宿した。ほむらはまどかが魔女へと化さないことを祈り世界を繰り返したが、その努力自体は徒労であった。まどかは辛い経験を通じたが、祈りの一言だけで世界を救済した。
以上の事柄から、魔まマは時勢に反しており、時代を象徴しているとは思えないと云う事。まずこれが理由のその1。
要因その2:祈りと構造と演出と
魔まマは魂の救済を祈る物語である。簡単に各登場人物たちについて整理すると
巴マミ
望まぬまま魔法少女になり、一人で戦うことに疲れている。孤独からの解放を望んだがマミった。
結末…まどか自体はいなくなったが、ほむら、杏子と共同戦線を張っており、孤独自体からは救われた。
美樹さやか
幼馴染の障害を治し、出来れば彼と結ばれることを望む。魔法少女と化した我が身を嫌い、杏子に反発し滅私の方向へ。絶望のまま魔女と化した。
結末…絶望自体がなかったことに。幼馴染の障害は完治。彼の横に居ることは出来なくなった。(「これでよかったんだ、あいつのヴァイオリンをみんなに聴いてもらうことが出来たから満足」が本心であるのなら魂は救われた)
佐倉杏子
背景が特になく、ポジティブに魔法少女として行動。美樹さやかの魔女と共に心中。
結末…共同戦線においていつも通りに戦闘。そもそも救われるべき課題がない。
暁美ほむら
親友のまどかが魔法少女(後に魔女となることが運命づけられた存在)にならないことを望む。まどかが魔女になる前にソウルジェムを撃ち抜き、タイムリープしたように、まどかと共に生きることを望んでいる。まどかの世界改変に臨んだ他の唯一の魔法少女。
結末…まどかのいない世界で魔法少女となる。まどか自体は魔女になる存在ではなくなったが、まどかと共に生きることは出来なくなった。
鹿目まどか
他の登場人物たちの死、Qべえに見せられたビジョンにより、全ての魔法少女が魔女にならないことを望む。
結末…前時代全世界に偏在する存在となり、魔女と化す魔法少女たちの呪いを救済する。望みは完全にかなえられた。
長々と書いた訳だが、見ての通りその魂が救われていない登場人物たちが居る。そもそも各魔法少女たちの抱える問題が独立しており、問題を束ねる大きな枠組み、論理がないため、全てを救うことはほぼ不可能な訳ではあるが。
こう云うとこの物語はダメなものに思われてしまうが、それを補ってあまりあるのがその演出力の素晴らしさだ。
魔法少女まどか☆マギカの演出は非常に完成度が高く、見ていて「飽き」を感じさせない。構造上の問題が持ち上がる最終話終盤においても、さやかが観客席でまどかと佇むシーン、母親のリボンの話、ほむらが弓をつがえるシーン、それらによって視聴者のボルテージは上がる。
演出>構造になると、人は充足してそこで終わってしまう。些細な疑問や不満を吹き飛ばす満足感、幸福感は心を潤してくれるが、思考はそこで閉ざされる。粗探しのような振り返りを自然と拒否する姿勢があるから、この作品は「とても良い作品」という評価で終わってしまう気がするのだ。
まー何が云いたかったかと云うと、見ると気持ちが良くなるから(サブカル的)目の肥やしになるってこった。2011年最良最大アニメはもう決定事項だろうしね。
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