【マジ基地日記】男の娘作品と女装作品の違いを自分勝手に見つつ放浪息子の話へ
2011年2月24日 趣味 コメント (2)・女装系
大体が中性的な美貌を持つ主人公が女装をするメリット(女子『校』に入らないと行けない、男性禁制の集団に入るetc。この逆の男装も「ノノノノ」などの作品にみられる)に直面し、女装しつつもその集団の女子群と仲良うなる話。
基本的に女装というのは方便であり、主人公のユニセックスな外面を強化しながらも、男性×女性というノーマルな関係性は結局のところ存在する。(寧ろ女子群の中で逆紅一点なため、余計に際立たされる)
・男の娘系
男性が女装をするということには違いが無いが、ここでの関係性は男×女装をした男である。女装系が同性同士に見せかけた異性関係であるのに対し、男の娘系は異性同士に似せた同性関係である。
男の娘作品ジャンキーの友人にその良さを聞いたところ「何か良い」という煮え切らない答えが返ってきたことがある。渡された「わぁい!」に掲載されている漫画は皆もっこりで正直「何だこれはたまげたなあ…」という感想しか思いつきませんでしたが 、そこに見る「心地よさ」というのは、「無力なか弱い女性を自分だけが守ってやれる」というレイプファンタジー心性が=無自覚なナルシシズム(「他人を傷つけない優しいボク」という自意識。「優しさ」という理由づけにおいて現実における関係性を拒否している訳だが。)が肥大した結果、女性「性」を根源的に否定し、より内向きな態度で自分を慰撫する心理状態にあると思う。
~~~
長々と書きましたが放浪息子(アニメ)の話へ。
放浪息子は今期やっているアニメで、性意識に葛藤を覚える登場人物たちがそれぞれ苦悩しながら中学生という多感な時期を生き抜いていく雰囲気アニメです。水彩画のような淡い色彩が、儚く揺れる彼ら彼女らの心象を支えています。
そんな放浪息子に対して意見は分かれています。
絶賛する者もいれば
http://www.excite.co.jp/News/reviewmov/20110125/E1295880296276.html
けなす者もいます。特に先日とあるはてなダイアリーの『「放浪息子」への嫌悪感の正体』というエントリーが大変な盛り上がりを見せていました。
http://d.hatena.ne.jp/amamako/20110126/hourou
同性愛意識とそれに対する人間の好悪の感情についてはこの記事や、この記事が言及しているtogetterに既に書かれているので省略します。
上で男の娘と女装を書いてきたのに反しますが、私は放浪息子に対する嫌悪感の正体の本質は、性にあるのではなくマイノリティ、マジョリティの問題、更にはその感情を抱く主体側にあると考えています。
~~
放浪息子を見た感想は「きもっ…」の一言に尽きます。「男同士でいちゃつくとか、マジ気持ち悪い」これが正直な感想でしょう。
しかしこの感情はBL作品、男の娘作品を読む、プレイする際には余り抱くことはありません。これは何故か。
BL、男の娘はその作品世界の暗黙裡として同性愛が肯定されている、若しくはそのような前提を持つことが作品の受容者に求められているからです。
BLの嫌じゃ嫌じゃは口のうちですし、男の娘も可愛くてビンビンですね。
しかし放浪息子は同性愛がその世界で認められている訳ではありません。自分の服を弟に借りられた姉は嫌悪感を露わにして非難しているし、登場人物たち自身もその感情を全肯定はしていない。同性愛はマイノリティである=現実世界と同様なのです(流石にこれに反論されたら仕様が無いが)。
しかし乍らそんな社会=現実の中でマイノリティさを否定することも、否定的にふるまうこともせず清らかな解決を望む登場人物たちの姿が、 嫌悪感を抱く人たちにとっては許せないのです。
それは何故か?アニメを見るのは自分のような糞オタ共であり、現実世界でのマイノリティだからです。そしてマイノリティであるにも関わらず、そのマイノリティさを戯画化することなく(現実で言えば「オネェキャラ、オカマキャラ」を「演じる」こと、作品で言えばギャグ化することでしょうか)、健気に生きようとする姿が、同じマイノリティでありながらそんな強さを持ち合わせず自分を殺すしかなかった人間にとってはたまらなく腹が立つのです。
それ故に彼らは異性愛意識の持ち手=マジョリティ側に立って、「きもい」という嘗て自分に向けられた罵詈を放浪息子のキャラクターに向けて放つのです。
自分はマイノリティポジションの人間です。だからこそ、放浪息子に対して自虐、自己の再認識として嫌悪感を抱く。
日蔭者は日蔭者らしくすっ込んでろ 、と。
大体が中性的な美貌を持つ主人公が女装をするメリット(女子『校』に入らないと行けない、男性禁制の集団に入るetc。この逆の男装も「ノノノノ」などの作品にみられる)に直面し、女装しつつもその集団の女子群と仲良うなる話。
基本的に女装というのは方便であり、主人公のユニセックスな外面を強化しながらも、男性×女性というノーマルな関係性は結局のところ存在する。(寧ろ女子群の中で逆紅一点なため、余計に際立たされる)
・男の娘系
男性が女装をするということには違いが無いが、ここでの関係性は男×女装をした男である。女装系が同性同士に見せかけた異性関係であるのに対し、男の娘系は異性同士に似せた同性関係である。
男の娘作品ジャンキーの友人にその良さを聞いたところ「何か良い」という煮え切らない答えが返ってきたことがある。
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長々と書きましたが放浪息子(アニメ)の話へ。
放浪息子は今期やっているアニメで、性意識に葛藤を覚える登場人物たちがそれぞれ苦悩しながら中学生という多感な時期を生き抜いていく雰囲気アニメです。水彩画のような淡い色彩が、儚く揺れる彼ら彼女らの心象を支えています。
そんな放浪息子に対して意見は分かれています。
絶賛する者もいれば
http://www.excite.co.jp/News/reviewmov/20110125/E1295880296276.html
けなす者もいます。特に先日とあるはてなダイアリーの『「放浪息子」への嫌悪感の正体』というエントリーが大変な盛り上がりを見せていました。
http://d.hatena.ne.jp/amamako/20110126/hourou
同性愛意識とそれに対する人間の好悪の感情についてはこの記事や、この記事が言及しているtogetterに既に書かれているので省略します。
上で男の娘と女装を書いてきたのに反しますが、私は放浪息子に対する嫌悪感の正体の本質は、性にあるのではなくマイノリティ、マジョリティの問題、更にはその感情を抱く主体側にあると考えています。
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放浪息子を見た感想は「きもっ…」の一言に尽きます。「男同士でいちゃつくとか、マジ気持ち悪い」これが正直な感想でしょう。
しかしこの感情はBL作品、男の娘作品を読む、プレイする際には余り抱くことはありません。これは何故か。
BL、男の娘はその作品世界の暗黙裡として同性愛が肯定されている、若しくはそのような前提を持つことが作品の受容者に求められているからです。
BLの嫌じゃ嫌じゃは口のうちですし、男の娘も可愛くてビンビンですね。
しかし放浪息子は同性愛がその世界で認められている訳ではありません。自分の服を弟に借りられた姉は嫌悪感を露わにして非難しているし、登場人物たち自身もその感情を全肯定はしていない。同性愛はマイノリティである=現実世界と同様なのです(流石にこれに反論されたら仕様が無いが)。
しかし乍らそんな社会=現実の中でマイノリティさを否定することも、否定的にふるまうこともせず清らかな解決を望む登場人物たちの姿が、 嫌悪感を抱く人たちにとっては許せないのです。
それは何故か?アニメを見るのは自分のような糞オタ共であり、現実世界でのマイノリティだからです。そしてマイノリティであるにも関わらず、そのマイノリティさを戯画化することなく(現実で言えば「オネェキャラ、オカマキャラ」を「演じる」こと、作品で言えばギャグ化することでしょうか)、健気に生きようとする姿が、同じマイノリティでありながらそんな強さを持ち合わせず自分を殺すしかなかった人間にとってはたまらなく腹が立つのです。
それ故に彼らは異性愛意識の持ち手=マジョリティ側に立って、「きもい」という嘗て自分に向けられた罵詈を放浪息子のキャラクターに向けて放つのです。
自分はマイノリティポジションの人間です。だからこそ、放浪息子に対して自虐、自己の再認識として嫌悪感を抱く。
日蔭者は日蔭者らしくすっ込んでろ 、と。
コメント
最後のひとつはわからん!
ケツドラムはいつ聞いても笑ってしまう